「所有せざる人々」アーシュラ・K・ル・グウィン
ル・グウィンは理想主義者であり、理想主義者についての小説はSFとして描かれるのが最も効果的だと知っていた作家だと思われる。この本を読むと「アナーキズム」という言葉の意味の捉え方が変わってくる。二重惑星があり、その片方が無政府主義の星である。そこには国も法律もないし、所有という行為もない。一体そんなことで社会が成立するのかを問いかける思考実験による小説だ。一方もうひとつの星は、なんとなく地球を思わせる。無政府主義の星で生まれ育った主人公の半生記と、その主人公が年老いてからもうひとつの星を訪れる話とが交互に描かれる。このあたりは、バルガス=ジョサの小説を彷彿とさせる。主人公が訪れるのは、なんとなくアメリカを思わせる国であり、その星にはなんとなくソ連を思わせる国もあれば、南米の独裁国家を思わせる国もある。それらを描くことで、それ以外の選択肢のあることをフィクションとして描いている。
一種のユートピア小説であり、ユートピア小説がディストピア小説になる必然も、さらに相対化するのが二重惑星というSF的ガジェットであることが面白い。「所有せざる惑星」の人々は、それはモノが少ないから致し方なくそうしているという側面もある。豊かな国の象徴である「アメリカ」的な国へ生きて帰りし物語でもあり、主人公は最終的に何物も所有しないことを選択するのだ。それは、時間差なく宇宙のどこにでも通信できる理論でさえ自分のものではなく全宇宙のものとして解放するという考えに伴って表明される。何も持たない生き方。それも出来るはずだという鋭い指摘を突きつけられて、私たちはどう生きていくのか問われている。
「恋は雨上がりのように」9 眉月じゅん
最初このマンガは恋愛マンガだと思って読んでいたが、だんだん様相が変わってきた。舞台はどこにでもあるようなファミレス。そこでアルバイトする女生徒が、冴えない中年男の店長に恋をする。どうしてそんな男に恋をするのかが分からなかった。それがだんだんわかってきた。
女生徒は、優秀な陸上選手だったが足の怪我によってそれを諦めかけている。その代償が店長への恋だったわけだが、その理由は何なのか。単なる好奇心や歳上の男への憧れなのか。実は、店長も「何か」を諦めた人間だったのだ。学生時代は文学を志し、そのときの同級生は売れっ子作家になっていて今も交流がある。もう自分は書けないと思い込んでいたのが、ものすごく年下の女生徒と交流する中で、もう一度夢を追いかけたいと思うようになる。そして、女生徒の方も、もう一度「走ること」を追いかけようと決意しかけている。つまり、これは「諦める/諦めない」ことについてのマンガだったのだ。
この巻のラストでは、中年男は徹夜で原稿用紙に向かっている。女生徒は、リハビリを始めるかどうか決断し得ないまま、店長への思いを募らせている。このあと、まだいくたりかの物語の起伏があるだろう。しかし、結論は恋愛の成就ではないように思う。ほのかな片思いよりも、もっと熱くて重たい「夢」があるような気がする。
「消しゴム」アラン・ロブ=グリエ
ヌーヴォー・ロマンともアンチ・ロマンとも呼ばれる文学潮流の始まりとされる小説で、難解なものを予想していたけれど、めっぽう面白かった。
最初の「視線」は、酒場の主人のもので彼に見えるのものは全て幽霊のようなものだ。その幽霊たちが徐々に人間としての思考や行動を起こしていく。まず、殺人者が登場して犯行を実行する。そう、これは倒叙もののミステリでもあるのだった。彼は致命的ミスをして殺人をやり損なう。しかし、翌日の新聞には「強盗殺人」が行われたと載り、中央から捜査官が派遣されてくる。この捜査官がどうやら主人公のようだ。地元警察や関係者の間を渡り歩いて証言を集めていくが全く糸口が掴めない。それに、この捜査官の念頭にあるのは事件の解決よりも、一度見たことがある素晴らしい「消しゴム」を探すことのようだ。しかし、その消しゴムも手に入れることができない。
事件は最終的には思いもよらぬ形で解決される。だから、これはミステリとしても傑作になっている。そして、同時に人間存在の不安定さを描いている。この小説はサルトルやカミュなどの「実存主義」小説に否を唱えるために書かれたものだが、人間性の追求という点では同じ文学性を持っているように思われる。そういえば数年前にこの文庫本を求めたときにキャンペーンで高級消しゴムが当たるというのに応募してみごと当選した。おそらく、応募した人が少なかったのだろう。その消しゴムは使わないでまだとってある。
なお、この本は名張さかえ進学教室で貸出している。
「絶望」ウラジミール・ナボコフ
光文社新訳文庫のツンドク消化。またしても倒叙ミステリ。まあ、そんなことを言えばドストエフスキーもカミュも倒叙ミステリということになってしまうのだけれど。そう考えると、犯人探しのミステリの方が、文学の倒叙と言えるのかもしれない。
そしてまたしても叙述ミステリでもある。その、まあ、叙述ミステリの部分は、それはないだろ? と怒るレベルだけれど、そんなところに主眼がないことははっきりしている。行ったり来たりする文体が、はじめの方は読みづらいが、慣れてくると心地よくなってくるのは、作者の罠にハマっている証拠だ。そのなかで重大なヒントをひとつ見落としてしまった。文体自体がミスデレクションになっている。くりかえすが、これをミステリとして読むと怒って投げ出すよ。そういえば倉多江美のマンガの主人公が「異邦人」をミステリとして読んで、殺人の動機に怒って投げ捨てるシーンがあった。「見えない」ということも、チェスタトンやスラデックのミステリのトリックのひとつでもある。どうして、私はミステリとの類似ばかりここに書いてしまうのだろう。登場人物の一人がいう。「普通の人は似ているところばかり見る。でも、画家は異なるところを見る」
ロブ=グリエが人間存在の不安定さを描き出したのに対して、ナボコフはフィクションの不安定さをテーマにしていると言える。伊坂幸太郎や米澤穂信など最近の日本のミステリが文学に近づいていることも、もしかしたらロブ=グリエやナボコフの系譜かも知れない。
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